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東京高等裁判所 平成5年(ネ)3814号 判決

主文

一  原判決中控訴人敗訴部分を取り消す。

二  東京地方裁判所平成四年(手ワ)第三一〇号事件の手形判決を取り消し、被控訴人の右手形金請求を棄却する。

三  被控訴人は控訴人に対し、別紙物件目録記載の土地建物についてなされた横浜地方法務局鎌倉出張所平成二年一二月一四日受付第一九三九二号の根抵当権設定登記の抹消登記手続をせよ。

四  被控訴人の本件控訴を棄却する。

五  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

理由

一  本件土地建物の所有と根抵当権設定登記及び公正証書の存在並びに約束手形の所持

本件土地建物が控訴人の所有に属すること、右土地建物について被控訴人のために本件根抵当権設定登記がなされていること、及び控訴人と被控訴人との間に、被控訴人を債権者、有限会社中一設備を債務者、控訴人を連帯保証人とする横浜地方法務局所属公証人有田栄二作成平成三年第三七号金銭債務弁済契約公正証書が存在し、右公正証書には次の記載があること、被控訴人が原判決別紙約束手形目録記載のとおりの手形要件及び連続した裏書の記載ある約束手形(本件手形)を所持していることは、いずれも当事者間に争いがない。

(公正証書の記載)

1  被控訴人は中一設備に対し、平成二年一二月一三日、一億八六〇〇万円を、弁済期同三年三月一二日、利息年一割五分、遅延損害金年三割の約定で貸し付けた。

2  控訴人は被控訴人に対し、右債務について連帯保証する。

3  控訴人は、右債務の履行をしなかつたときは直ちに強制執行を受けることを認諾する。

二  融資、連帯保証、根抵当権設定契約及び公正証書作成の合意

1  甲野太郎は、平成二年一二月一二日、中一設備代表者乙山との間で、被控訴人が同社に対し二億円を融資すること及び乙山が連帯保証をすることを合意し、また、当時弁護士であつた丙川との間で、控訴人が中一設備の右債務を連帯保証するとともに、本件土地建物に極度額二億円の根抵当権を設定し右債務の弁済について執行受諾文言を含む公正証書を作成することを合意しかつ、丙川弁護士から、右公正証書の作成の委任のための控訴人の代理人の選任についても委任を受けた。

控訴人は、この合意自体も否定するが、後に認定するように、翌一二月一三日に被控訴人代理人である甲野はじめ中一設備の代表者乙山ほかの関係者が浦田司法書士事務所に会して本件登記の手続をしていることからして、前記のような合意自体があつたことは認めてよく、控訴人の主張はそのままには採用することができない。もつとも、この合意の効力は、金銭消費貸借契約の成立を前提とするものであり、金銭消費貸借は金銭の授受を成立の要件とするものであるから、まだ、完成した契約とはいえないことは控訴人のいうとおりである。そして、本来なら、翌一二月一三日の金銭の授受及び根抵当権の設定登記の手続をするに際しても控訴人自身または控訴人の代理人である丙川弁護士が立ち会つてはじめて契約が完成するというべきことも、控訴人のいうとおりである。そして、本件に関する契約書類の作成日付がいずれも一二月一三日付けとなつていることや、同日には控訴人自身も丙川弁護士も立ち会つていないこと及び本件契約書類には丙川弁護士が控訴人を代理したことを表す記載はないことは証拠上明らかであり、このことを問題とする控訴人の主張にももつともなところがある。これらの点については、後に項を改めて丙川弁護士の代理権の有無ないし表見代理の成否を判断するに際して改めて判断することとする。

2  甲野は右合意に先立ち、同月一〇日頃、被控訴人の委任を受け、右行為に際し、被控訴人のためにすることを示し、丙川弁護士は、右合意に際し、控訴人のためにすることを示した。

三  控訴人の丙川弁護士に対する代理権の授与の有無

控訴人が丙川弁護士に対し代理権を授与したとの被控訴人の主張に沿う証拠として、乙第三号証の一、第八号証の二、第二二号証の二、乙第四号証の一、第五号証、第六号証の三と、原審証人乙山、同丙川、当審証人丁原の各証言がある。しかし、これらの証拠によつて控訴人が丙川弁護士に右代理権を授与したと認めることはできない。以下に順次判断する。

1  乙第三号証の一、第八号証の二、第二二号証の二は本件公正証書作成、本件根抵当権設定登記申請に関する委任状、同第四号証の一は本件根抵当権設定にかかる担保提供承諾書、同第五号証は根抵当権設定契約書、同六号証の三は約束手形の裏書欄で、いずれの書類にも控訴人の署名捺印があり、控訴人が自署したこと及び印影が控訴人の印章によつて顕出されたものであることには争いがない。

しかし、控訴人は、明治四三年一一月二七日生まれの高齢者で、視力が弱かつた上、眼鏡を持参しなかつたため、乙山から、かねて売買の仲介を依頼してあつた西安原の土地の売買に必要な書類であるとの説明を受けて、各書類の記載内容を十分確認しないまま署名押印したものであり、乙山に騙されたものであると主張し、控訴人本人の供述(原審)もこれに沿う。そこで、はじめに前記各証言及び控訴人本人の供述の信用性について検討する。

(一)  原審証人乙山は、平成二年一〇月下旬頃、健康を害しており、経営する中一設備(空調設備を扱う会社であるという。)が休眠状態にある等同人の窮状を話したところ、控訴人は乙山に同情し、同社の再建資金の借り入れにつき五〇〇〇~六〇〇〇万円の範囲で保証すると励ましてくれ、更に、五〇〇万円の謝礼で中一設備が他から二億円の融資を受けるための担保を提供すること及び月額二〇万円の報酬で同社の取締役に就任することを承諾した旨証言する。

しかし、同証言によつても、控訴人と乙山とは、昭和四八年頃乙山の仲介により控訴人が富士宮市山宮字車掛の土地及び同西安原の土地を購入したことがあつたことから知り合つた間柄で、その後はこれといつた交際もなかつたところ、たまたま、平成二年の九月頃になつて控訴人が右車掛の土地を他に売却したい意向であるとの話を聞いた乙山が控訴人を訪ね、この土地を代金一四五〇万円で売却するのを仲介したことがある程度の付き合いにすぎない。また、休眠中の中一設備の再建計画が具体的にどのようなものなのか、例えば、どのような事業を予定し、そのためにいくらの資金が必要で、どのように返済する計画なのか等について、乙山は控訴人になにも説明したことがないばかりか、中一設備は事務所はもとより資産も皆無で、従業員もいない状況であつて、乙山自身ですらどのように事業を再開するのかのめどさえついていなかつたというのである。さらに、友人である久保に融資を依頼して、久保が所持していた株式会社ベストライフ社振出の二億円の約束手形を使つて融資を受けることになつたとして、久保の裏書を得たうえこれに控訴人に裏書してもらつたというが、この手形がどのような取引のために振り出されたものかとか、振出人の信用状況について全く調査もしておらず、久保を信用したというだけであつて、もとより控訴人にはなんの説明もしていないことは乙山自身その証言で認めるところである。

全く見ず知らずの間柄ではないにせよ、土地の売買の仲介をしてもらつただけの人のために、確かな裏付けもない承諾料五〇〇万円及び月額二〇万円の報酬目当てに、具体的な事業計画や返済計画も聞かずに、弁済能力に期待を持てない休眠会社の再建話に乗つたり、単なる同情心から、二億円もの高額の連帯保証をするとか、所有権を失う危険を冒して自宅やその敷地まで担保に提供するなどということは、よほどのお人好しでもまず考えられないことである。控訴人に裏書してもらつたという手形についても、自分が調査すらしていないのであるから、控訴人にまつとうな説明をしたとは考えられない。本件において控訴人があえてこのような危険を冒してまで乙山のために連帯保証をしたり自宅まで担保に供する特段の事情があつたとは認められないところであつて、原審証人乙山の右証言は、まずこの点で信用することができない。

それだけではない。乙山の証言によると、被控訴人から本件融資を受けたという二億円(実際に受け取つたのは一億八六〇〇万円という。なお、真実この授受があつたかについては、後に判断する。)のうち、一億六〇〇〇万円ほどは久保に渡したという。中一設備の事実資金として融資を受けるという当初の話とは全く矛盾した行動である。控訴人が中一設備のために二億円の保証と、担保の提供を承諾していたとの点に関する限り、乙山の証言は支離滅裂であるといつてよい。乙山は久保と共謀して始めから控訴人の資産を目当てに騙しに掛かつているとの疑いがきわめて濃い(乙山の証言によると、本件物件の評価証明書も控訴人に無断で交付を受け、有罪判決を受けていることが認められるほか、同種の詐欺事件で起訴されていることも認められる。)。この点の乙山証人の証言は到底信用の限りでない。

(二)  次に、原審証人丙川は、平成二年一一月二七日、丙川法律事務所において、控訴人に対し、担保承諾書、根抵当権設定契約書等の書面の内容を説明し、控訴人の保証意思を確認した上、貸主との間で控訴人を代理してこれらの契約を締結するための代理権を授与され、乙第三号証の一に署名捺印してもらつたと証言する。

しかし、証人丙川の証言も、きわめて疑問が多い。

まず、同証言によると、本件の話は、同弁護士事務所の事務員であつた丁原松夫(以下「丁原」という。)を通じて同弁護士の知り合いである久保から持ち込まれたもので、確実な物的担保を提供してくれる人があるので融資元を紹介してほしいとのいう話が発端であるという。そして、同弁護士は、控訴人とはもとより乙山とも初対面の間柄で、また、久保としては融資元の一応のあてはあるが、丙川弁護士の方で融資してくれる人を幹旋してもらつてもいいとの話もあつて、結局丙川弁護士が融資元として大王産業株式会社の佐々木恒雄を紹介して平成二年一一月二七日に、久保、乙山、控訴人のほか佐々木と事務所で面談し、控訴人に保証意思を確認したという。これでは、いつたい誰の権利の保護のために委任を受けたのかすらはつきりしないのであつて、弁護士としての受任の態度として極めて不明朗であり、基本を踏み外しているといわれても止むを得ない。しかも、丙川弁護士と久保とはそれまでにも何度か貸借の関係がある間柄であり、久保から話を持ち込まれた際にも丙川弁護士は久保に一六〇〇万円程の融資をしており、現に本件の被控訴人からの融資金のうちから久保を通じて一三〇〇万円の返済を受けているというのであつて、自らの債権を回収する目的もあつて久保に協力したという一面があることを否定できない(久保、乙山、控訴人からは、特に本件の受任の報酬も受けていないという。自らの利益になつている面があつたからであろう。丙川証言は言葉を濁しているが、このことを否定していない。)。これでは、控訴人の委任を受けて事務を処理したというよりも、久保の委任を受けて事務を処理したか、または自らの利益を図るために事務を処理したといわれても仕方のないところである。さらに、丙川証人は、控訴人の代理人として行動したといいながら、一一月二七日に控訴人が丙川事務所に来た際には融資の話が実現せず、被控訴人との貸借はその後になつて控訴人の知らない間にできた別の話であるのに、控訴人に対しては被控訴人との話の内容も連絡していないし、自らは本件融資の取引の場にも立ち会わず、また本件の取引ができたことを事務員から報告を受けたというのに、その結果を委任者であるという控訴人に連絡することすらしていないという。およそ弁護士としては考えられない行動であり、あつてはならない行動であるといつてもよい。

以上のように、丙川弁護士の行動は、誠実な弁護士の事務処理とは到底いえないものであつて、ひいては、その証言の信用性も極めて疑わしいというほかない(そのほか、本件の関係書類のうち白地のままであつた部分についての証言も曖昧であるほか、丙川弁護士の記名捺印のある《証拠略》の作成経緯に関する証言も余りにも無責任であることや、同人は平成五年六月に所属の東京弁護士会により退会命令の懲戒処分を受けていることは裁判所に顕著であることも指摘しておく。)。

(三)  当審の丁原証人の証言にも触れておく。

同証言は、基本的には丙川証人の証言とほぼ同旨である。しかし、同人の証言も、肝心のところでは(例えば、丙川弁護士が具体的に控訴人にどのように説明して保証や担保の提供の意思を確認したのか、弁護士自身が説明したのか乙山または久保が説明したのか、関係書類の記載がどこまで完成していたかなど。)、いかにもあいまいであるばかりか、同人も、本件に関連する保証書の偽造のほか、同種の公正証書原本不実記載で二度にわたつて有罪判決を受けていたことを認めており、その証言をそのまま信用しにくい事情があるほか、すでに(一)、(二)にのべたところに照らしても、その証言は信用するわけにはいかない。

(四)  最後に控訴人の供述について検討する。

すでに、乙山証人、丙川証人、丁原証人の証言の信用性について判示したところは、逆にいえば、控訴人の供述をおおむね信用すべき事情といえる。確かに、控訴人の供述にもいささか納得しかねるところがないではない。例えば、乙第六号証の一、二は約束手形用紙であることは、一見して明らかである。明治四三年生まれの高齢者で(本件当時八〇歳)老眼で視力が弱つていたにしても、表を見れば約束手形であることくらいは判りそうなものであるし、乙第四号証の一、第五号証も、書き込み部分は白地であつたにしても、活字部分をみれば、売買に使う書類とは違うことは判りそうなものである(その余の控訴人署名の書類は、白地で署名したとすると、具体的な内容は判らなかつたのも無理はない。)。一般論としてはそうみるのが常識的であり、原判決がそう判断したのも無理からぬところはあるといえる。しかし、すでに判断したところからすると、本件はかなり特異な事案である。そして、前記の点を除けば、控訴人の供述はむしろ自然であり、西安原の土地を売るには、印鑑証明書を渡したり、委任状に署名するのも当然であつて、異とするところはない。売買の話であるというのであれば、すでに車掛の土地を売つてもらつているので、乙山のいうことを信用し、ことに買い主が弁護士があると聞かされたとすると、乙山または丙川弁護士(本物の丙川弁護士か、丙川弁護士と称した久保かはともかく)のいうままに書類の内容をよく点検しないで署名させられてしまつたということも、必ずしも不自然とはいえないところである。担保提供承諾書や根抵当権設定契約書等の書類の標題部分の活字まで老眼でよく見えなかつたというのはいささか疑問は残るとはいえ、乙山や久保が始めから控訴人を騙すつもりであつたとすれば、内容に気付かれないようにして署名捺印させることも十分考えられるところであつて、この控訴人の供述もあながち排斥することはできない。被控訴人は、売買の話なら、西安原の登記済証を持たずに行くはずはないというが、まだ始めて顔を合わせるという段階であるから、話が進むかどうかも判らないし、結果としては書類に署名捺印するところまで進んだとはいえ、登記済証を持参しなかつたことを不審とするにはあたらない。第一、被控訴人のいうように抵当権を設定する話が煮詰まつていたというなら、なおさら登記済証を持参しそうなものであるのに、理由はともかく、控訴人はこれを持参していないことに変わりはない。この点をとらえて控訴人の供述の信用性を問題にする被控訴人の主張は採用の限りでない。また、被控訴人は、久保が丙川弁護士だと偽つたとしても、丙川弁護士事務所ですぐに嘘が判つてしまうから、そんなことをするわけがないともいう。しかし、後にも触れるように、丙川弁護士事務所ではつきりと本物の丙川弁護士を紹介されたかどうか自体に疑問が残る(この点の控訴人の供述の訂正も、被控訴人のいうほど問題にすべきものではない。)本件にあつては、被控訴人のこの主張も当たらない。

控訴人の供述には、若干誇張があるなどの点はあると思われるが、大筋においては信用することができる。

2  以上に検討したとおりであつて、証人乙山、同丙川、同丁原の各証言は信用することができず、控訴人の署名捺印のある前掲各書証も、控訴人の意思を表すものと推定することはできないというべきである。むしろ、原審における控訴人の供述により、控訴人は乙山から自宅の土地、建物等を担保に供することについては全く説明を聞いておらず、西安原の土地の売買に必要な書類であるとの説明を受けて前掲各書類に署名捺印したものと認めるのが相当である。また、同供述によると、控訴人は、一一月二七日朝自宅に迎えに来た乙山から久保を丙川弁護士であると紹介されて誤解していたものと認められ、丙川事務所で本物の丙川弁護士から書類の説明を受けたこともないという原審における控訴人の供述もあながち嘘を言つているとは思えない。ちなみに、丙川事務所で本物の丙川弁護士に対面したのか、対面してもはつきりと紹介されたかどうかにも疑問が残る。すでに判示したとおり、丙川弁護士は、控訴人の代理人になり、控訴人に代わつて融資契約をする予定であつたとしながら、控訴人と面談したという一一月二七日以後に融資元が変わり(したがつて、当然融資の条件も変わるはずである。)、融資額も二億円に決まつたというのに、このことを控訴人に知らせていないし、丙川証言によると、本件消費貸借の実行当日は丙川弁護士自身も浦田司法書士の事務所に行つて貸借に立ち会う予定であつたというのに、急遽札幌に行く用事ができて立ち会わなかつたという。代理を受任しておきながら、肝心のときに本人に連絡もしないで立ち会わないというのもこれまた弁護士の行動として理解できないところであることはさておいても、《証拠略》によれば、丙川弁護士が札幌へ発つたのは一二月一三日の午後四時四〇分羽田発の飛行機であつたと認められるから、浦田司法書士事務所で立ち会うことは十分可能であつたはずである(取引は午後一時頃には終わつている。)。当日来るかもしれない控訴人と顔を合わせては具合が悪い事情があつた、つまり、一一月二七日には実は本物の丙川弁護士は控訴人と顔を合わせていなかつたか、または弁護士であることを紹介されていなかつた、との疑いも払拭できないことを指摘しておく。

3  ここで、本件消費貸借契約に至るまでの経緯について、これまで検討したところにしたがつて、前掲各証拠により、事実の経過を判断すると、つぎのとおり認定するのが相当である(なお、各証拠の評価はすでに判断したとおりである。)。

(一)  控訴人は、明治四十三年一一月二七日生で、小学校を出て、洋服の仕立屋に奉公した後、二三歳の頃から家業の農業及び造園業を営んできた者である。控訴人は、昭和四八年一月及び二月、乙山の仲介により、車掛の土地及び西安原の土地を購入し、その後、乙山とはなんの取引関係もなく過ぎたが、平成二年九月初め頃、乙山から勧められて、同人の仲介により、同年一一月一四日、サンキ・システムプロダクト株式会社との間で、車掛の土地を代金一四五〇万円で売り渡す契約を締結し、同日、乙山から、西安原の土地も代金一〇〇〇万円で売却することを勧められ、同人にその仲介を依頼した。

(二)  乙山はその頃休眠中の、空調及び冷暖房設備工事の設計施工を目的とする中一設備の代表者であつたが、同年一〇月三〇日、控訴人の了解を得ることなく、本件土地建物の固定資産税評価説明書、登記簿謄本、公図写、地図等を取得し(なお、乙山は、後に、控訴人の委任状を偽造して固定資産税評価証明書の発行を受けたことについて、有印私文書偽造、同行使罪により有罪判決を受けた。)、知人の久保に対し、右各書類とともに、前記売買の際に控訴人から受領した印鑑証明書(同年一一月七日発行)を交付し、本件土地建物を担保とする融資の斡旋を依頼した。久保は、丙川法律事務所の事務員丁原に融資の依頼を取次ぎ、同人とともに、丙川弁護士に融資者の紹介を依頼した。同弁護士は、佐々木恒雄(大王産業株式会社代表者)に依頼し、同社から融資を受ける見込みを得た上、丁原に、控訴人との面会を手配させた。

(三)  乙山は、久保から、融資が得られる見通しがついたこと、ついては同年一一月二七日に控訴人を丙川弁護士の事務所に同道されたいとの連絡を受け、同月二六日、控訴人に対し、前記西安原の土地の売買について弁護士が買いたいという話があるので、翌日弁護士事務所に行つて売買のために必要な交渉等をしたいとの連絡をし、同行を求めた。乙山と久保は、同月二七日午前、自動車で控訴人をその自宅に迎えに行き、控訴人は乙山から、買い主の丙川弁護士であるとして久保を紹介され、同人から丙川弁護士の名刺を受け取つた。

控訴人は、乙山と共に都内で食事を済ませた後、同日午後二時頃、一旦別行動をとつていた久保と落ち合い、東京都港区虎の門所在の丙川法律事務所に着いた。同事務所には、乙山、久保、佐々木恒雄、(本物の)丙川弁護士及び同事務所事務員清野元豪が同席していたが(ただし、本物の丙川弁護士が同席したかどうかは前記のとおり若干疑問が残る。)、控訴人は、佐々木恒雄、清野元豪及び丙川弁護士本人については格別紹介を受けなかつた。

控訴人は、丙川弁護士と思い込んでいた久保ないしは乙山から、西安原の土地の売買に必要な書類であるとの説明を受け、老眼鏡を持参していなかつたこともあつて、内容をよく確認しないで(どのような書類かも判らないで)、いわれるままに委任状(乙第三号証の一、第八号証の二、第二二号証の二)、担保提供承諾書(乙第四号証の一)、根抵当権設定契約書(乙第五号証)、約束手形(株式会社ベストライフ振出、額面金額二億円)の裏書欄(乙第六号証の三)に署名捺印した。その際、控訴人は、久保ないしは乙山からも(本物の)丙川弁護士からも、書類の内容が中一設備の債務を保証して控訴人所有の自宅を含む本件土地建物を担保に提供し、根抵当権を設定するためのものであるとか、公正証書を作成するためのものであるなどとの説明は受けなかつた。なお、控訴人は、当日、西安原の土地、本件土地建物いずれの登記済証も持参していなかつたが、そのことが特に話題に上ることもなかつた。

控訴人は、西安原の土地を売るのに必要な書類の作成が済んだものと思つていたので、丙川弁護士の事務所を辞去した後に乙山と共に立ち寄つた喫茶店で乙山に対し代金の支払いを求めたところ、乙山は、久保から受け取つた額面五〇〇万円の小切手を控訴人に交付するとともに、後日その小切手と引換えに現金を支払うから、銀行には呈示しないよう求めた。

(四)  ところで、佐々木恒雄は結局融資を断つてきたため、丙川弁護士は、改めてこれまでにも融資を依頼したことのあつた知人の宮本師明に対して融資元の紹介を依頼し、同年一一月二七日に控訴人から預かつた前記委任状、担保提供承諾書、根抵当権設定契約書、約束手形、並びに久保を通じて入手していた本件土地建物の登記簿謄本(平成二年一〇月三〇日発行)、公図及び控訴人の印鑑証明書(同年一一月七日発行)のコピーを宮本に交付した。

(五)  甲野は、宮本から融資の依頼を受け、右各書類のコピー及び本件土地建物を現地で見た上、同月一二日、庄子健二(以下「庄子」という。被控訴人が融資金の一部の出捐者と主張している者。)を伴つて丙川法律事務所に赴き、前記約束手形の振出人ベストライフの代表者玉本康稔と名乗る人物(この人物も本物の玉本ではなかつた。)及び丙川弁護士から説明を受けた。

甲野は、同席していた乙山に対し、二億円を貸し付けることを約し、丙川弁護士との間で、中一設備の右債務を控訴人が連帯保証し、本件土地建物に極度額二億円の根抵当権を設定し、その旨の公正証書を作成し、その作成の嘱託のための控訴人代理人の選任を被控訴人に委任することを合意した上、甲野と乙山及び丙川弁護士は、翌日浦田司法書士事務所に落ち合つて抵当権設定登記の手続及び金銭の授受を行うことを約した。

4  以上のとおりであつて、控訴人が丙川弁護士に対して被控訴人との消費貸借につき保証をし、本件土地建物を担保に供する契約をする代理権を与えたことを認めることはできない。

四  本件消費貸借の成否(現金の交付の有無)

次いで、一二月一三日の状況について検討する。

被控訴人は、その代理人甲野が平成二年一二月一三日に、浦田司法書士事務所で中一設備の代表者乙山に、現金二億円(天引き等により、実際には一億八六〇〇万円)を交付し、登記のための手続を済ませ、控訴人の裏書のある本件手形の交付を受けたと主張する。

しかし、消費貸借成立の要件である金員交付の事実は疑わしく、真実二億円(ないしは一億八六〇〇万円)の金員の交付があつたとの心証を得ることはできない。

原審及び当審証人甲野、原審証人乙山、当審証人丁原らは、被控訴人主張のとおり、現金交付があつたと証言しており、中一設備(代表者乙山)名義の領収証もあるが、これらの証拠はそのまま採用しがたい。その理由は次に述べるとおりである。

1  原審証人乙山、当審証人丁原、原審及び当審証人甲野の各証言によると次のようにいう。

(一)  乙山は、平成二年一二月一三日、控訴人とともに市役所に行つて印鑑証明書二通の発行を受けたが、控訴人は都合が悪くて行けないというので、印鑑証明書を預かつて、前日甲野らと約束したJR目黒駅付近の浦田司法書士事務所に赴いた。同所には、甲野、乙山、久保のほか、宮本、丁原及び庄子が参集したが、丙川弁護士は来なかつた。浦田事務所で登記の手続を依頼したうえ、現金の授受を済ませた(利息を天引きし、宮本に手数料を支払つたので乙山が手にしたのは差引き約一億八〇〇〇万円ないし一億八六〇〇万円である。)。現金は甲野が一億五〇〇〇万円、庄子が五〇〇〇万円持参した。

(二)  取引が終わつた後、乙山は久保に一億六六〇〇万円を渡し、同日夕方に久保とともに、控訴人方を訪れ、控訴人に対し保証及び担保提供の謝礼として一一月二七日に控訴人に渡してあつた額面五〇〇万円の小切手と引換えに現金四〇〇万円を支払い、残代金は後日銀行送金することにして、控訴人に口座番号を書いてもらつた。

乙山は、その後同月一八日、控訴人を中一設備の取締役とする就任の登記を行い、同月二六日、同三年一月二五日及び同年二月二五日に各二〇万円を控訴人の銀行口座に振込送金した。もつとも、残金は現在に至るも支払つていない。

(三)  浦田司法書士事務所で登記申請に必要な書類を整えた結果、平成二年一二月一四日受付をもつて、本件土地建物のうち神奈川県鎌倉市《番地略》田三一平方メートルについて山崎勝弘及び古村玉蔵を権利者とする賃借権設定仮登記がなされ、また、本件土地建物全部について被控訴人を権利者とする本件根抵当権設定登記がなされた。被控訴人は、同月二七日頃、被控訴人のための根抵当権設定登記につき、法務局から通知を受領したが、格別の措置は講じていない。もつとも、前記山崎勝弘及び古村玉蔵の賃借権仮登記については、同人らはその意思に基づくものではないとして、同三年一月三一日、その抹消登記手続をし、両名の名義の冒用について丁原は、後に公正証書原本不実記載・同行使罪により有罪の判決を受けた。

2  しかしながら、被控訴人の代理人である原審及び当審証人甲野の証言によると、本件融資に際しては、融資先である中一設備の事業規模や経営の内容も調べておらず、融資金の使途についても、ただ事業資金であると聞いたというのみで、それ以上の具体的な使途や返済計画等、乙山ないし中一設備の信用力に関する諸事情についても全く調査もせず、関心を持つていなかつたし、本件手形の振出人であるベストライフあるいはその代表者玉本の信用力についても、銀行の当座取引口座があることを確かめたが、それ以上は全く調査していないという。いくら物的担保をとつたにしても、これまでに金融の経験もあり、法律問題についてもかなり詳しいはずの者(甲野は自分で起訴命令を申立てているし、本件で準備した陳述書からもこのことは十分窺える。)の行動として、常識的にいつて理解できないところである。

3  また、本件貸付金の資金源も不明瞭である。原審及び当審証人甲野は、一億八〇〇〇万円(一億八六〇〇万円ともいう。)の現金の出所について、庄子から五〇〇〇万円、甲野の妻(入籍はしていないという。)である被控訴人の長男甲野一郎から三〇〇〇万円を借受け、残る一億二〇〇〇万円は自己資金をもつて当てたといい、原審においては、五〇年の間に稼いで自宅の押入れに現金で保管していたものであると述べていたが、当審になつて平成六年七月一三日の証人尋問で資金源を追及された後に、平成二年一月三〇日に被控訴人が投資した五二〇〇万円を現金で支払つた旨の記載のある光山賢の陳述書、平成二年一二月一三日に三〇〇〇万円の支払いがあつた旨の記載のある甲野一郎名義の銀行預金通帳、昭和六二年六月一二日財団法人東京植物化学研究所が同財団の理事長をしていた被控訴人に対し功労金五〇〇〇万円を支払つた旨の記載のある同財団元理事長の陳述書、被控訴人に平成二年八月一一日に三二〇〇万円の債務を返済した旨の熊沢照子の陳述書等の資金源の存在を窺わせる文書を提出した。これらの資料には必ずしも的確な裏付けのないものもあり、そのまま信用するには躊躇させられるものがあることはさておいても、いまごろになつて裏付けも明らかでないこのような証拠を提出すること自体かえつて全体として供述の信用性を損なうものといわれても仕方がない。また、原審及び当審証人甲野は、庄子からの借り入れについて、借用証も入れていないし、利息も払つてないというのであつて、これもまたそのままには信用しがたいことである。資金源についての原審及び当審証人甲野の証言をにわかに信用するわけにはいかないゆえんである。

4  現金授受に関する客観的な裏付け証拠も乏しい。現金の授受を述べる原審及び当審証人甲野、原審証人乙山、当審証人丁原の各証言はいずれも、誰から誰にいくらどのように交付されたかについて不明瞭であるばかりでなく、原審証人乙山は、単なる紹介者に過ぎない宮本師明なる人物に一〇〇〇万円も渡したとか、乙山自身が代表者である中一設備が借り受ける大事な資金であるというのに、首肯できる理由もなく久保に一億六六〇〇万円も渡したと述べるなど、極めて不自然、不合理で納得しがたい供述部分が多い。加えるに、原審及び当審証人甲野は、平成二年一二月一三日に浦田司法書士事務所に関係者が参集した席で一億八〇〇〇万円(あるいは一億八六〇〇万円)の現金を乙山に交付したと供述している(当審では「二億円全部を一括して乙山に渡したのですか」という尋問に「そうです。」と答えている。)が、《証拠略》によれば、原審及び当審証人甲野のいうとおりに一億八〇〇〇万円あまりもの現金の授受があれば、少し離れた場所でのことであつても、司法書士として本件に関する書類を作成していた証人浦田の印象に残つていそうなものであると思われるのに、証人浦田は全くそのような記憶はないというのである。

ちなみに、本件根抵当権の設定登記手続は、被控訴人を申請代理人として行われている。右の点について司法書士である浦田証人は、通常は本人の意思を確認した上、司法書士が申請代理人として登記手続を行うのであるが、本件においては、控訴人が来所せず、控訴人本人の意思を確認することができなかつたので、申請の手続に必要な書類の作成には応じたものの、自らが控訴人の申請代理人となることは断り、登記所への書類の提出等実際の事務処理には協力するが、被控訴人側で登記義務者である控訴人の代理人として登記申請手続をするよう求めたと証言している。被控訴人は、浦田証人の証言の信用性も否定し、証人甲野も、被控訴人が登記の申請について控訴人の代理人になつていたことは本件訴訟になつて《証拠略》を見て始めて知つたなどというが、同号証の委任者欄の「甲野花子」の字は甲野の手になるものであると認められる(同人の宣誓書の筆跡と対象してみても間違いないし、同証人も自分の筆跡らしいとしている。)ことからして、甲野の右証言及び被控訴人の主張は採用の限りでない。

以上判断したところに照らすと、浦田司法書士事務所である程度の現金が動いたにしても、甲野から乙山に対して、本件貸金として、真実一億八六〇〇万円(ないし一億八〇〇〇万円)の現金の交付があつたとの心証を得ることはできず、本件消費貸借契約の成立を認めることはできない。

五  表見代理の成否

すでに判断したところからすると、控訴人の丙川弁護士宛の委任状は、受任者欄及び委任事項の記載のないまま控訴人が署名捺印したもの(つまり、白地で作成された)と認められるのであつて、控訴人が本件根抵当権設定等のために丙川弁護士に代理権を与えることを表示するものとはいえないし、控訴人が任意の第三者に一切の代理権を与えることを承諾していたことを認めるに足る証拠もない。したがつて、控訴人がこの委任状に署名捺印したからといつて、丙川弁護士に一切の代理権を授与したことを表示したとするわけにはいかず、民法一〇九条適用の要件を欠く。また、同条と同法一一〇条の重複適用を検討しても、本件においては、被控訴人の代理人である甲野が丙川弁護士に代理権があると信ずるについて正当の事由があつたとも認め難い。被控訴人は弁護士の社会的信用性をいい、甲野証人も専らこれを強調する。確かに、一般論としてはもつともなところであろう。しかし、本件は弁護士への信頼をいうような事案とはかなり様相をことにする。まず、本件は、被控訴人ないし甲野が法律問題等の紛争解決に関して弁護士に事務を委任したというようなケースではない。丙川弁護士は乙山ないし久保の依頼を受けて金融のための融資元の斡旋をしていたのであり、甲野もそうしたなかで融資を依頼された者である。弁護士が代理人であるとしても、もともとは金融の取引であるから、融資をする側としては、確実な返済を期するためには債務者の資力や融資する資金の利用方法や返済方法の確実性などを調査するのは、「いろは」の「い」といつていいほど基本的な事柄である。ところが、甲野証人の証言によつても、本件の貸借に当たつては借主である中一設備ないし代表者の乙山に関して信用性はおろか、事業をしている会社かどうかについてすらなんの調査もしていないというのであるし、弁済を確保する上でもつとも大事であつたという本件約束手形の交付を受けるに際しても、その支払いの確実性(振出人の信用性)はもとより、これがどのような原因で振り出された手形であるかについてまつたく確かめることもしていないし、もちろん調査していないというのである。正常な取引とは考えがたい。弁護士の社会的信用性をいう前に、ほんの基本的な注意を払いさえすれば足りることである。それに、すでに判示したとおり、消費貸借契約は金銭の授受によつて始めて成立するのであり、根抵当権の登記も司法書士事務所で問題なく登記書類ができてはじめてできることは甲野も当然判つていたはずである。ところが、当日は控訴人本人もその代理人になるはずの丙川弁護士も来ていないし、前記のとおり、本人の意思確認ができないために浦田司法書士には登記申請の代理を断られて、被控訴人が控訴人の代理人となつて本件登記をしていることからすると、浦田司法書士事務所での手続もすんなり終わつたとは認め難いところである。特に急ぐ融資ではないし、控訴人に連絡をとつて確認するというほんの僅かな手間を掛け、注意をすれば済むことである。こうした事情を考えると、本件にあつては甲野が丙川弁護士に代理権があると信じたことに正当の事由があつたとすることはできず、弁護士を信頼したことのみをいう被控訴人の(甲野のと言い換えてもよい)主張は採用することができない。

六  以上に判断したところによれば、本件消費貸借の成立並びに保証契約ないし抵当権設定契約が有効であることを前提とする被控訴人の主張は理由がなく、これらの効力を否定する控訴人の請求は理由がある。また、被控訴人の手形金請求については、そもそも控訴人の裏書が手形に裏書をするとの認識がなくしてなされた疑いが濃いし、少なくとも原因関係を欠くとの控訴人の抗弁を認めることができるから(本件手形の裏書が控訴人の保証債務の支払ないし担保の趣旨でなされたことは明らかであり、形式的には乙山の裏書が介在するが、乙山の裏書も控訴人と同様被控訴人に対する連帯保証債務を負う乙山が同じ趣旨で同時にしたものであり、かつ、このことは被控訴人の代理人である甲野が当然知つていたものと推認することができるから、形式的には乙山の裏書が介在していても、控訴人の主張する原因関係上の抗弁をもつて被控訴人に対抗することを是認することに問題はない。)、被控訴人の手形金請求は理由がないことになる。

七  以上のとおりであつて、原判決中控訴人の請求異議を認容した部分は結論において相当であるから、被控訴人の控訴は理由がないものとしてこれを棄却し、原判決中控訴人の根抵当権設定登記抹消登記手続請求を棄却した部分及び被控訴人の本件約束手形金請求を認容して手形判決を認可した部分は相当でないからこれを取り消し、被控訴人に対し右根抵当権設定登記の抹消登記手続をすべきことを命じ、また手形判決を取消した上被控訴人の手形金請求を棄却すべきものである。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 上谷 清 裁判官 田村洋三)

裁判官 小川英明は転任のため署名捺印することができない。

(裁判長裁判官 上谷 清)

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